実践報徳記事よりご紹介
~これまで掲載してきた記事から~
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報徳セミナーを終えて 小田原報徳実践会会長 田嶋 享 |
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実践報徳011号(2013年4月号) | |
四月六日、七日の両日、全国報徳団体連絡協議会の皆様と小田原市内を中心に尊徳ゆかりの地を巡りました。栢山の生家を出発、捨て苗をしたとされる地を経て仙了川土手の菜種畑へ。ここは、市の管理により整備が行き届いていました。次に訪れたのは金次郎生家から西方へ二里(約八km)、南足柄市矢佐芝村です。山道を行くと木札に「金次郎の腰掛石」と印された岩があります。正に金次郎が柴を背負い、書を読みながら歩みを進める中でほんの一時腰を下ろす姿が目に浮かぶ佇まいです。 平成二十二年四月に今はハイキングコースでもあるこの地を金次郎ゆかりの場所として更に認知を深めるべく地元自治会を中心に看板を設置、像の建立等が推し進められました。江戸城や小田原城の石垣にも使用されたと伝えられる巨大な石も数多く目にする事の出来る自然に囲まれた素晴らしいエリアでもあります。次に私たちが訪れたのはJRの松田駅です。 |
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三重県鳥羽市で「日本の真珠王」と歌われた御木本幸吉が明治四十二年六月にこの地を訪れたことを刻した石碑があります。幸吉は今市で行われる祭典に赴いた際、偉人尊徳の噂を耳にしてその生誕の地を訪れるべく松田駅を経由して一里半の道のりを馬車で栢山に向かったそうです。当時の生家付近は桑畑に雑草が生い茂る荒れた土地でした。幸吉はこの地を三回に分けて購入したとの資料が残されております。後に小田原市がこの土地を取得し昭和三十五年には尊徳記念館が建立されました。また隣接する生家は約二百七十年前金次郎の祖父銀右衛門が建てたとされております。 一八一八年三十一才の金次郎は酒匂川の中州で当時の老中大久保忠真からその行いを表彰されました。現代でいえば内閣の閣僚からの表彰はその後の自身の生き方、考え方を大きく転換するきっかけとなったと思われます。栃木県の櫻町領に赴任以後の人との接し方、中でも特に一人一人の良さを見つけ出し賞賛する事、また徳を認め賞を与える際も心を込めて手渡した事など、人との接し方に優しさ、いたわりの気持ちがより強く表出されるきっかけとなった様に感じられるのです。 最後に訪れたのは、金次郎の二度目の妻「なみ」(後にうた子と改名)の実家のある小田原市飯泉。実家のすぐ近くには遺髪塚も残されております。 以上今回巡った場所以外にも小田原市とその周辺には二宮尊徳ゆかりの場所や施設が多数ございます。皆様にも是非お出掛けいただき尊徳翁の遺徳を偲んでいただければと思います。 |
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家庭人・二宮尊徳 報徳博物館評議員、日本ペンクラブ会員 新井恵美子 |
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実践報徳010号(2013年1月号) |
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文化元年(1804)、18才の金次郎は伯父万兵衛の家を出た。二年前、金次郎と二人の弟は両親を失い、孤児となっていた。成人前の孤児は親族が預かるという約束事が当時の小田原地方にはあったのだ。二人の弟たちは母の実家に預けられ、金次郎とは別れ別れとなってしまった。一家は離散したのだった。しかも金次郎の家は貧しさのどん底に落ち込んでいた。 金次郎は実家に戻ってきたけれど、家も土地も人手に渡り、ただわずかな空き地に草ばかりがぼうぼうと生え茂っていた。それでも金次郎は希望に溢れていた。「今、自分は一つの山に登ろうとしているのだ。一家再興という名の山に登るのだ」 |
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生家の土地を買い戻し、小さな小屋を建てて、目標に向かって歩き出した。それは小さな一歩だったが、これこそが金次郎の「積小為大」の実験の始まりだった。 金次郎には理想があった。「この世から貧しさを無くす。誰もが豊かに幸せに暮らせる世界を作りたい」そんな大きな夢に向かって走り出す金次郎だったが、それにはまず自分の家庭を作り直さなくてはならない。両親は死んでしまったが、二人の弟がいる。「彼らを一日も早く呼び寄せて新しい家庭を作るのだ」と思うのだった。 こうして金次郎は荒れ地を開墾し、種を撒いた。捨てられた苗を拾って植えた。すると秋には実りとなって金次郎のものとなった。 「大地は親のない子の味方になってくれる」と金次郎は感謝した。なんと有り難いことか。その年の秋、金次郎は二十俵の米を手に入れていた。それが金次郎の出発のタネとなったのだ。 その喜びの日、つまり文化2年正月16日、金次郎は晴れやかに「日記万覚帖」の最初のページに書き込んでいる。「一、銭二百文内 手ぬぐい」の文字が今も輝いている。 その頃、手ぬぐいは庶民の暮らしの中に入って来て、流行し始めていた。村々を手ぬぐい売りが声高らかに叫んでいた。「手ぬぐい、手ぬぐい」という叫び声は何ともいえない新しい空気を運んできたものだった。金次郎はその手ぬぐい売りを呼び止めて、何本か買った。生活は相変わらず厳しいものだったが、気持ちは晴れ晴れしていた。「俺は手ぬぐいをかったぞお」と叫びたいほど誇らしかった。出来るものなら手ぬぐいを旗にしてぼろの小屋に立てたい気持ちだっただろう。それが金次郎の晴れの門出のささやかな祝い事だった。 |
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尊徳翁 大久保忠真より表彰の地 小田原報徳実践会会長 田嶋 享 |
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実践報徳009号(2012年10月号) | |
JR小田原駅前から国府津行のバスで「城東高校前」で下車し、前方の信号の左手、八幡神社の前を通る旧道を東に、酒匂川へ向かうとやがて土手に至る。その土手を越えた辺りの河原が、大久保忠真表彰地と言われています。 ここに、二宮尊徳遺跡記念碑があり、これは「二宮金治郎が大久保忠真から表彰された遺跡を後世に伝承するとともに、金治郎(後に金次郎・尊徳)の業績を顕彰する」ことを目的に、ふるさと偉人遺跡研究会の興津繁氏と私が小田原市に寄贈したもので、昭和63年11月16日に除幕式が行われました。 |
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当時、寺社奉行・大阪城代・京都所司代と江戸幕府の重職を歴任した小田原藩主、大久保忠真は、文政元年(1818年)8月には老中に昇進し、数年ぶりに小田原へ帰城しました。忠真の目に映った領内は疲弊の度が著しく、彼はその回復策の一環として、領内で特に心がけが良く、感心な者を表彰することを企画しました。同年11月、忠真は江戸赴任の途次、相模湾にほど近い酒匂川右岸の河原に領民など関係者を集め、節約・倹約の励行など六箇条にわたる告諭を示すとともに、孝行人・出精奇特の者13人を表彰しました。その奇特人の筆頭が「栢山村二宮金治郎」でした。金次郎は、この表彰によって自らのために行った家政建て直しなどが公けの為になっていることを知り、驚くと共に大いに自信をつけることになったのです。金次郎31才の時でした。 「郷方奇特ものへ」の表彰状文面は次の様に書かれていました。 『兼々農業精出し、心懸宜しき趣相聞こえ、尤も人々次第はこれあり候えども、よき儀にて、その身はもちろん村為にもなり、近ごろ惰弱なる風俗中、殊に一段奇特の儀につき、ほめ置く。 役勤むる者は、その身怠りては万事相届かざることにて、小前の手本にも相なる儀ゆえ、いよいよ励み申すべく候。』 藩公直々のこの表彰、ことに「その身はもちろん村為にもなり」の一句は、金次郎に強い衝撃を与えた模様で、それが藩政への種々の献策ともなり、桜町仕法着手にあたっての「これまで数年(多年)心掛け候自分一家相続、子孫繁栄、壱人勝手の所存、自他を振り替え、村為に相なり候よう取り計らい~」という心境にもつながったといわれているのです。 参考文献:『かいびゃく』第39巻第2号(平成元年二月号)、一円融合会 |
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川崎屋孫右衛門の話 ~報徳記 巻四から抜粋~ |
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実践報徳005号(2011年10月号) | |
東海道大磯宿(今の大磯町)に川崎屋孫右衛門という男がおりました。代々、穀物商売を渡世とし大富豪との評判でしたが、ケチで慈しみの心が薄く自分の利益ばかりに心を尽くしていました。人は彼の事を、粗悪な貨幣で他所では使えない事になぞらえ「仙台通宝」と呼びました。 天保7年(1836年)の大飢饉の際、餓死者の増える中無頼の男達の扇動で、金持ち達の家を襲い、打ちこわし、家具や食物等の全てを破壊し奪い去る事件が数え切れない程起こりました。孫右衛門の留守宅にも米を安く譲って欲しいと願い出た者がありました。番頭の断りも通じず、暴徒と化した数百人の手で全てが打ち砕かれたのです。報告を受けた官は、暴徒をさとした上で、慈悲の心で地元民に接することのなかった孫右衛門を捕らえました。「これから皆を救おうと思っていた。」という孫右衛門の言い訳は聞き入れられず、挙げ句逆切れし「自分は被害者であり投獄されるいわれはない。」と、牢を出た時にはこの恨みを町内の皆に返さずにおくものかと日夜、憤怒の涙を流し続けたのです。 孫右衛門の姻戚関係にある伊勢原宿の宗兵衛はその様子を知り、当時桜町に赴任していた二宮尊徳に教えを請うたのです。 尊徳は この思いに賛同した孫右衛門の妻の父与右衛門、父方の縁者宮原屋清兵衛と孫右衛門の三人に、宗兵衛は再建の為の資金千両を無利息で尊徳から借り入れる事を提案しました。紆余曲折の末、四人と面会した尊徳は大音声でその申し出を拒絶したものの、宗兵衛の必死の懇願に対し今一度、 この後、町内の人々が孫右衛門を信頼し、争いの心は消え父母のごとく睦み合う中で自身も節倹を守り、分に応じた商売に精出す事で再び多くの富を得ることとなりました。大磯宿引き立ての為更なる寄付を申し出た事もその後の彼の名声に拍車を掛けました。 しかしその後孫右衛門は、尊徳の教えを無視し我意に流れ多大の金銀を失い再び極貧状態に落ち込んだのです。何とも波瀾万丈の人生です。尊徳の教えに従うときはいかなる紛擾争乱もたちまち安穏平和となり災害も幸せに転ずるが、ひとたびその教えに背いた時には積年の功も一時にしてすたれてしまうのです。 |
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今こそ報徳仕法を |
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実践報徳004号(2011年07月号) 小田原報徳実践会会長 田嶋享 |
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3月11日の東日本大震災で被災された多くの皆様に心よりお見舞い申し上げますと共に一日も早い復旧、復興をお祈り致しております。あの日から既に四カ月以上、抜本的な措置もないままに日々を過ごされている皆様のお気持ちを考えますと適切な言葉すら見つけることができません。希望を捨てず、例え少しずつでも前向きに考え行動して戴きたいと切に思う次第でございます。 今、国の状況は、尊徳翁の人生観と相通ずるものがあると考えられます。この度の大災害に対して国、地方自治体の考えが一つにまとめられ、いち早く行動に移し、しかも結果として、関わる全ての人々の賛同を得るものでなければならないのですから‥。 併せて尊徳翁だったら現状に対し具体的にどの様に指示し更にどの様な結果をもたらすのか、考えずにはいられません。 尊徳翁を語るには、その入口として全国各地の学校をはじめ、公共施設に6万体以上あるといわれる「柴を背負った少年二宮金次郎像」を欠かす事はできません。この像の原点は、小田原市栢山村から8里(約30km)もある矢佐芝村への山道を柴拾いに通った金次郎12歳頃の姿です。 祖父から父へ相続された田畑は二町三反五畝。更に“栢山の善人”と言われた父は、他人に金銭を工面する事をいとわず、さらに自らの病の為、田畑を売り払ってしまったのです。極貧ともいえる状況の下での相次ぐ両親の死を始め、たび重なる試練に金次郎は力強く立ち向かいます。昼は伯父を手伝い、夜は菜種油で灯をともし勉学に励みました。友人から譲り受けた種を仙了川堤に蒔き7升~8升を収穫、また空き地に捨て苗を植え一俵(60Kg)の米を得るなど、後の金次郎の生き方に大きな影響を及ぼす経験を積んだのです。 最後となりますが、私も今この国難ともいえる現状を「報徳仕法」を礎として実践、打破して頂きたい、又出来得る限りお手伝いしたいと強く願う一人であります。 《平塚ロータリークラブ》での講演より抜粋 |
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報徳一途・二宮家三代の足跡をたどる ~金次郎、桜町行きの途中で~ |
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実践報徳2010年4月号 いまいち一円会 佐藤治由 |
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三才になったばかりの弥太郎を連れた金次郎夫妻が、栢山を出発したのは文政6年3月13日のことであり、15日には江戸に到着しました。しばらく江戸に滞在した金次郎一行は5月26日に江戸を出発し、同月28日に下野桜町にたどりつきました。 この日、金次郎一行が桜町にほど近い谷田貝の宿にさしかかると、道端にひざまづき、「私は村役人の一人ですが、二宮様がお出でになるというので、供の者二人を連れてお迎えに参りました。遠路はるばるお越しを頂き、お疲れのことでございましょう。旅の疲れを癒していただくために酒の席も準備してありますので、どうぞこちらへ。」と、声を和らげて話しかけてきました。 金次郎は、村役人の言葉に感謝しながら、「私は一刻も早く桜町へ行きたいのです。折角のお心遣いですが、遠慮させていただきます。」と述べ、谷田貝の宿を過ぎて桜町の陣屋に到着しました。 金次郎が、谷田貝宿まで迎えに出た村役人のもてなしを断ったことを伝え聞いたある人が、「村役人の折角の好意を無視するのは失礼だったのではありませんか、何か他に理由でもあったのですか。」と訊ねました。 それに答えて金次郎は次のように話しました。 「だいたい、良さそうなことを言って近づいてくるのは必ず下心があるからなのだ。実直で清潔な人はそう軽々しく出て来ることはないのだ。お世辞上手な彼らは上役には媚びへつらい、下々の者を虐げて私腹を肥やそうとしているのだ。今までにも何人かの役人が小田原から派遣されてきたが、みなお世辞上手が村役人に騙されて善良な村人たちを失望させ、村の気風は少しも良くならなかったのだ。だから、私は彼らのお世辞に乗せられることなく、善悪をよく見極め、善行者を表彰し、弱者を憐れむ村の政治を行いたいのだ。」と。 金次郎の話を聞いて感心したその人は、以後金次郎を深く信頼するようになりました。 |
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尊徳翁と御木本幸吉翁との出逢い |
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実践報徳2010年4月号 小田原報徳実践会会長 田嶋享 |
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明治二十二年二月一日東海道本線が開通した。当時は沼津から御殿場を経由して国府津駅まで六十・二キロの道程でした。 当時五十二才であった御木本幸吉翁は、三重県鳥羽の生まれで、幼名は阿波屋吉松といい、小さな食堂の長男として生まれ、父は音松、母はもとといった。十三才の頃には青果の行商を行い、二十才の時に十一日間をかけて東京・横浜を視察し、見るもの、聞くもの別世界に来たような驚きを体験した。 |
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明治四十二年六月下旬、幸吉翁は松田駅で下車した。当時、報徳の教えの高まりで参拝者が多くなったが、松田駅から栢山までの道程は不慣れな状態であった。 尊徳翁は、身長一八五センチ、体重九五キロ、七十才死去 幸吉翁は、身長一六五センチ、体重六十キロ、九七才死去 写真は、松田駅長室の横に建立されている道標。 小田原報徳実践会 |
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家庭人・二宮尊徳 報徳博物館評議員、日本ペンクラブ会員 新井恵美子先生 |
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実践報徳011号(2013年4月号) | |
金次郎の一家再興の事業は思いがけず、短い時間で完成した。二十四才の春、念願の家普請が出来た。田んぼはもう一町四反五畝二十歩にもなっていた。それは足柄平野の平均的農民の持つほどの田地だ。 その上、金次郎はこの年、富士登山をした。江戸、伊勢、関西方面の旅に出る。旅行には金がかかる。近隣の農民は一生かけて家普請や旅をするのだ。それを金次郎は二十四才でやってしまったのだ。 「大したものだ」と周囲の者は驚いた。金次郎のあまりに早い一家再興に舌を巻いたのだった。金次郎自身も一つの山を制覇した満足感を味わっていた。しかし、無念なことがあった。弟たちを呼び寄せて新家庭を築く予定だったが、下の弟富太郎は九歳で亡くなっていた。上の弟常五郎も本家、二宮三郎左衛門の養子となってしまった。新築の家に一人座す金次郎は砂をかむような寂しさを感じていた。 |
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それでも金次郎は休む間もなく、次の高みに向かっていった。服部家の若党になったことがその第一歩だった。服部家に住み込む目的はいくつかあった。まず服部家の子息の教育係となることで自分の学問も深める。次に服部家の家政整理をすることで最初の仕法を成功させる事だった。小田原藩の筆頭家老である服部家の復興を成功させることで藩主大久保忠真に近づくことになるのだ。 この頃、金次郎は中島きのと最初の結婚をする。三十一才の時のことだ。一日も早く暖かい家庭を作りたかったのだ。しかしこの結婚は二年しか続かなかった。金次郎の生き方を真に理解する岡田波子と二度目の結婚をして、再出発をはかる。 藩主大久保忠真の命を受け、金次郎は野州桜町の復興のために立ち上がる。結婚して、長男弥太郎を生んだばかりの妻波子を伴ってわずかばかりの家財を馬の背に乗せて小田原を去って行く。二十四才までに再興した家も三町歩にもなった土地も処分して、旅立って行くのだった。 |