実践報徳記事よりご紹介

~これまで掲載してきた記事から~

 

報徳セミナーを終えて  小田原報徳実践会会長 田嶋 享

 実践報徳011号(2013年4月号) 
 

四月六日、七日の両日、全国報徳団体連絡協議会の皆様と小田原市内を中心に尊徳ゆかりの地を巡りました。栢山の生家を出発、捨て苗をしたとされる地を経て仙了川土手の菜種畑へ。ここは、市の管理により整備が行き届いていました。次に訪れたのは金次郎生家から西方へ二里(約八km)、南足柄市矢佐芝村です。山道を行くと木札に「金次郎の腰掛石」と印された岩があります。正に金次郎が柴を背負い、書を読みながら歩みを進める中でほんの一時腰を下ろす姿が目に浮かぶ佇まいです。

 平成二十二年四月に今はハイキングコースでもあるこの地を金次郎ゆかりの場所として更に認知を深めるべく地元自治会を中心に看板を設置、像の建立等が推し進められました。江戸城や小田原城の石垣にも使用されたと伝えられる巨大な石も数多く目にする事の出来る自然に囲まれた素晴らしいエリアでもあります。次に私たちが訪れたのはJRの松田駅です。

 
   三重県鳥羽市で「日本の真珠王」と歌われた御木本幸吉が明治四十二年六月にこの地を訪れたことを刻した石碑があります。幸吉は今市で行われる祭典に赴いた際、偉人尊徳の噂を耳にしてその生誕の地を訪れるべく松田駅を経由して一里半の道のりを馬車で栢山に向かったそうです。当時の生家付近は桑畑に雑草が生い茂る荒れた土地でした。幸吉はこの地を三回に分けて購入したとの資料が残されております。後に小田原市がこの土地を取得し昭和三十五年には尊徳記念館が建立されました。また隣接する生家は約二百七十年前金次郎の祖父銀右衛門が建てたとされております。

 一八一八年三十一才の金次郎は酒匂川の中州で当時の老中大久保忠真からその行いを表彰されました。現代でいえば内閣の閣僚からの表彰はその後の自身の生き方、考え方を大きく転換するきっかけとなったと思われます。栃木県の櫻町領に赴任以後の人との接し方、中でも特に一人一人の良さを見つけ出し賞賛する事、また徳を認め賞を与える際も心を込めて手渡した事など、人との接し方に優しさ、いたわりの気持ちがより強く表出されるきっかけとなった様に感じられるのです。

 最後に訪れたのは、金次郎の二度目の妻「なみ」(後にうた子と改名)の実家のある小田原市飯泉。実家のすぐ近くには遺髪塚も残されております。

 以上今回巡った場所以外にも小田原市とその周辺には二宮尊徳ゆかりの場所や施設が多数ございます。皆様にも是非お出掛けいただき尊徳翁の遺徳を偲んでいただければと思います。
 本セミナーでは以上の尊徳ゆかりの地を訪れた他に、現在小田原報徳実践会の活動の核をなす「報徳楽校」の内容を子どもたちの生き生きとした映像を交えて詳しくご報告し、報徳楽校四期生の開校式の見学もしていただき、誠に充実したものとなったと自負しております。


 家庭人・二宮尊徳 (一)手ぬぐいの旗
報徳博物館評議員、日本ペンクラブ会員 新井恵美子
 実践報徳010号(2013年1月号)  
  

 文化元年(1804)、18才の金次郎は伯父万兵衛の家を出た。二年前、金次郎と二人の弟は両親を失い、孤児となっていた。成人前の孤児は親族が預かるという約束事が当時の小田原地方にはあったのだ。二人の弟たちは母の実家に預けられ、金次郎とは別れ別れとなってしまった。一家は離散したのだった。しかも金次郎の家は貧しさのどん底に落ち込んでいた。

 金次郎は実家に戻ってきたけれど、家も土地も人手に渡り、ただわずかな空き地に草ばかりがぼうぼうと生え茂っていた。それでも金次郎は希望に溢れていた。「今、自分は一つの山に登ろうとしているのだ。一家再興という名の山に登るのだ」

 
  生家の土地を買い戻し、小さな小屋を建てて、目標に向かって歩き出した。それは小さな一歩だったが、これこそが金次郎の「積小為大」の実験の始まりだった。

 金次郎には理想があった。「この世から貧しさを無くす。誰もが豊かに幸せに暮らせる世界を作りたい」そんな大きな夢に向かって走り出す金次郎だったが、それにはまず自分の家庭を作り直さなくてはならない。両親は死んでしまったが、二人の弟がいる。「彼らを一日も早く呼び寄せて新しい家庭を作るのだ」と思うのだった。

 こうして金次郎は荒れ地を開墾し、種を撒いた。捨てられた苗を拾って植えた。すると秋には実りとなって金次郎のものとなった。

 「大地は親のない子の味方になってくれる」と金次郎は感謝した。なんと有り難いことか。その年の秋、金次郎は二十俵の米を手に入れていた。それが金次郎の出発のタネとなったのだ。

 その喜びの日、つまり文化2年正月16日、金次郎は晴れやかに「日記万覚帖」の最初のページに書き込んでいる。「一、銭二百文内 手ぬぐい」の文字が今も輝いている。

 その頃、手ぬぐいは庶民の暮らしの中に入って来て、流行し始めていた。村々を手ぬぐい売りが声高らかに叫んでいた。「手ぬぐい、手ぬぐい」という叫び声は何ともいえない新しい空気を運んできたものだった。金次郎はその手ぬぐい売りを呼び止めて、何本か買った。生活は相変わらず厳しいものだったが、気持ちは晴れ晴れしていた。「俺は手ぬぐいをかったぞお」と叫びたいほど誇らしかった。出来るものなら手ぬぐいを旗にしてぼろの小屋に立てたい気持ちだっただろう。それが金次郎の晴れの門出のささやかな祝い事だった。

 
 尊徳翁 大久保忠真より表彰の地 
小田原報徳実践会会長 田嶋 享
 実践報徳009号(2012年10月号)  
 
  JR小田原駅前から国府津行のバスで「城東高校前」で下車し、前方の信号の左手、八幡神社の前を通る旧道を東に、酒匂川へ向かうとやがて土手に至る。その土手を越えた辺りの河原が、大久保忠真表彰地と言われています。
 ここに、二宮尊徳遺跡記念碑があり、これは「二宮金治郎が大久保忠真から表彰された遺跡を後世に伝承するとともに、金治郎(後に金次郎・尊徳)の業績を顕彰する」ことを目的に、ふるさと偉人遺跡研究会の興津繁氏と私が小田原市に寄贈したもので、昭和
631116日に除幕式が行われました。
 
 当時、寺社奉行・大阪城代・京都所司代と江戸幕府の重職を歴任した小田原藩主、大久保忠真は、文政元年(1818年)8月には老中に昇進し、数年ぶりに小田原へ帰城しました。忠真の目に映った領内は疲弊の度が著しく、彼はその回復策の一環として、領内で特に心がけが良く、感心な者を表彰することを企画しました。同年11月、忠真は江戸赴任の途次、相模湾にほど近い酒匂川右岸の河原に領民など関係者を集め、節約・倹約の励行など六箇条にわたる告諭を示すとともに、孝行人・出精奇特の者13人を表彰しました。その奇特人の筆頭が「栢山村二宮金治郎」でした。金次郎は、この表彰によって自らのために行った家政建て直しなどが公けの為になっていることを知り、驚くと共に大いに自信をつけることになったのです。金次郎31才の時でした。

  「郷方奇特ものへ」の表彰状文面は次の様に書かれていました。

『兼々農業精出し、心懸宜しき趣相聞こえ、尤も人々次第はこれあり候えども、よき儀にて、その身はもちろん村為にもなり、近ごろ惰弱なる風俗中、殊に一段奇特の儀につき、ほめ置く。 役勤むる者は、その身怠りては万事相届かざることにて、小前の手本にも相なる儀ゆえ、いよいよ励み申すべく候。』

 藩公直々のこの表彰、ことに「その身はもちろん村為にもなり」の一句は、金次郎に強い衝撃を与えた模様で、それが藩政への種々の献策ともなり、桜町仕法着手にあたっての「これまで数年(多年)心掛け候自分一家相続、子孫繁栄、壱人勝手の所存、自他を振り替え、村為に相なり候よう取り計らい~」という心境にもつながったといわれているのです。

    参考文献:『かいびゃく』第39巻第2号(平成元年二月号)、一円融合会 『二宮尊徳全集』第14,p291

 
 川崎屋孫右衛門の話 ~報徳記 巻四から抜粋~
 実践報徳005号(2011年10月号)  
 東海道大磯宿(今の大磯町)に川崎屋孫右衛門という男がおりました。代々、穀物商売を渡世とし大富豪との評判でしたが、ケチで慈しみの心が薄く自分の利益ばかりに心を尽くしていました。人は彼の事を、粗悪な貨幣で他所では使えない事になぞらえ「仙台通宝」と呼びました。
 
 天保7年(1836年)の大飢饉の際、餓死者の増える中無頼の男達の扇動で、金持ち達の家を襲い、打ちこわし、家具や食物等の全てを破壊し奪い去る事件が数え切れない程起こりました。孫右衛門の留守宅にも米を安く譲って欲しいと願い出た者がありました。番頭の断りも通じず、暴徒と化した数百人の手で全てが打ち砕かれたのです。報告を受けた官は、暴徒をさとした上で、慈悲の心で地元民に接することのなかった孫右衛門を捕らえました。「これから皆を救おうと思っていた。」という孫右衛門の言い訳は聞き入れられず、挙げ句逆切れし「自分は被害者であり投獄されるいわれはない。」と、牢を出た時にはこの恨みを町内の皆に返さずにおくものかと日夜、憤怒の涙を流し続けたのです。

 孫右衛門の姻戚関係にある伊勢原宿の宗兵衛はその様子を知り、当時桜町に赴任していた二宮尊徳に教えを請うたのです。 尊徳は

「この禍根は一朝一夕の因ではなく実に昔からあるもの。孫右衛門一族も自然の道を失って富に走った事があるはず。妻、二人の子供も巻き込みこれ程までの不幸が重なり合う事は稀な事、故にこの禍の根元は深い。
 過去の凶荒に当たっても自らの富のみを考え積善の行いはなく人の災難を哀れみこれを助ける気持ちが欠けていたのではないか。それでも家が盛えたのは、祖先に必ず徳を積んだ者があったはず。その徳も尽き、今その禍根の全てが襲ってきたものである。
 にもかかわらず専ら自分を善とし家屋、家財を打ち壊した町内の者を恨んでいる。不公平極まりないと言う。天地間の万物は一理であり、瓜をまけば必ず瓜がなる。五穀もそれぞれまいた種に従って実る。孫右衛門も一家廃亡の種をまいたからこそ今の状況がある。決して救う事はできないし、いたし方ない事。」

と諭したのです。孫右衛門はその全てを認めた上で、必死で教えを乞うたのです。対して尊徳は
「孫右衛門の妹である宗兵衛の妻と共に極限までの質素な生活をおくる様、そこから孫右衛門を助ける小さな小さな芽が出るであろう」
諭しました。
 妻は尊徳の意を知り、すぐさま衣類、諸道具等全てを売り払いました。獄舎でこの想い、行いを耳にした孫右衛門は
慚愧の心を生じ、己の罪を知り我が身を責め涙したのです。官もこの事実を認め入獄を三年にして帰宅を許可しました。この全てを見切った尊徳の深慮と仁慈はまことに見事というしかありません。しかし、入獄中に妻をも失った孫右衛門、亡き母を慕って泣く子等を目にするに及んで再び町内の人々に対する怒気、恨みが再び胸を焦がすのでした。

 この思いに賛同した孫右衛門の妻の父与右衛門、父方の縁者宮原屋清兵衛と孫右衛門の三人に、宗兵衛は再建の為の資金千両を無利息で尊徳から借り入れる事を提案しました。紆余曲折の末、四人と面会した尊徳は大音声でその申し出を拒絶したものの、宗兵衛の必死の懇願に対し今一度、
「全ては孫右衛門の仁慈の心の無さがもたらした事、人の命を一人でも多く助けたい、そのためには己の利益など顧みないと思う気持ちを持たずして道は開けない。今の最悪の状況の根源は全て孫右衛門の不徳であり、他にあるものではない。もしここで己の非を知り、天を恐れ一身を投げ打っても他人の困苦を除こうとするならば、禍はたちまち福に転じ一家再興への道も生ずるのだ。」
と教えました。
 そして僅かに残った財産もただちに処分しお金にかえ、しかもそれを、家屋敷を叩き壊した町人達に分け与える様指示されたのです。「どうせできないだろうから好きにしなさい。」という言葉を受けて宗兵衛と孫右衛門の二人は、迷う気持ちを旧知の円覚寺の名僧淡海和尚に訴えました。和尚の答えは明解です。尊徳の深い道理に心から同意すると共に、その示教を十分理解できない二人を強く戒めたのです。孫右衛門の心も決まり、残っていた全てを売り払って得た五百両を与右衛門と清兵衛が代表して大磯宿の長に差し出しました。宿の長は、迷った末「孫右衛門の決心は固くここで我々が受け取らなくても決して引っ込めはしない。彼の信義の志を受けるべきだと考える。このお金を無利息年賦として貸し出し困窮の者が家を安定させるための費用にしようではないか。そして、家々が無事やっていけるようになった時、改めて孫右衛門に恩返しをしよう。」と提案し、町人一同も大いに喜びこの言葉に従う事にしました。

 この後、町内の人々が孫右衛門を信頼し、争いの心は消え父母のごとく睦み合う中で自身も節倹を守り、分に応じた商売に精出す事で再び多くの富を得ることとなりました。大磯宿引き立ての為更なる寄付を申し出た事もその後の彼の名声に拍車を掛けました。

しかしその後孫右衛門は、尊徳の教えを無視し我意に流れ多大の金銀を失い再び極貧状態に落ち込んだのです。何とも波瀾万丈の人生です。尊徳の教えに従うときはいかなる紛擾争乱もたちまち安穏平和となり災害も幸せに転ずるが、ひとたびその教えに背いた時には積年の功も一時にしてすたれてしまうのです。

 著者はこれらの史実を受け「商売を業とするものは利益をあげる事のみにこだわり善を積んで長久の計を得ることなど考えもしない。災害が襲来すれば天を恨み、人を咎めるばかり。孫右衛門も正にその通りの人生を送った。尊徳はそれらの状況を全て見越し、禍を福に転じた。その深慮遠謀は至仁の人尊徳故に可能な事であり、凡人の遠く及ぶところではない。尊徳が幾多の町村を再興した事実はことごとく『至誠』すなわちこの上なく誠実な心から生まれたものである。」と述べています。 
 
 今こそ報徳仕法を ~金次郎の生き方・考え方~
 実践報徳004号(2011年07月号)  
小田原報徳実践会会長 田嶋享  
 3月11日の東日本大震災で被災された多くの皆様に心よりお見舞い申し上げますと共に一日も早い復旧、復興をお祈り致しております。あの日から既に四カ月以上、抜本的な措置もないままに日々を過ごされている皆様のお気持ちを考えますと適切な言葉すら見つけることができません。希望を捨てず、例え少しずつでも前向きに考え行動して戴きたいと切に思う次第でございます。

 今、国の状況は、尊徳翁の人生観と相通ずるものがあると考えられます。この度の大災害に対して国、地方自治体の考えが一つにまとめられ、いち早く行動に移し、しかも結果として、関わる全ての人々の賛同を得るものでなければならないのですから‥。 併せて尊徳翁だったら現状に対し具体的にどの様に指示し更にどの様な結果をもたらすのか、考えずにはいられません。

 尊徳翁を語るには、その入口として全国各地の学校をはじめ、公共施設に6万体以上あるといわれる「柴を背負った少年二宮金次郎像」を欠かす事はできません。この像の原点は、小田原市栢山村から8里(30km)もある矢佐芝村への山道を柴拾いに通った金次郎12歳頃の姿です。

 1787年
723日金次郎は栢山で三人兄弟の長男として生まれ、祖父、両親と共に何不自由のない暮しでした。しかし、その後たび重なる自然災害で田畑は流失し、農作物も作ることができなくなったのです。病弱だった父、利右衛門にかわり11歳の金次郎が復旧工事に出るものの力不足を自認、夜なべをして大人達のわらじを編み、提供し続けたのです。この様に金次郎はいつも一歩先を見てどうしたら相手が喜びかつ納得する結果を得られるかを考え行動していたということが窺えます。12歳の時には旅の苗木商から200本の松苗を購入し、洪水から田畑を守る為に酒匂川の土堤に植えました。13歳で父を、15歳で母を病気で亡くした金次郎は、伯父、万兵衛宅に、二人の弟達は亡き母の実家へ引き取られる事になりました。金次郎の本当の苦労はここから始まったのです。
 私は、「蛙」の生き様に例え、少年時代、小田原での金次郎を「おたまじゃくし」、栃木県桜町時代を「かえる」としてお話させていただく事があります。更に「三つ子の魂百まで」といわれる如く、正に小田原で過ごした幼、少年時代の多くの経験こそ、後の金次郎の考え方の礎であったと言っても決して過言ではないと考えます。

 祖父から父へ相続された田畑は二町三反五畝。更に“栢山の善人”と言われた父は、他人に金銭を工面する事をいとわず、さらに自らの病の為、田畑を売り払ってしまったのです。極貧ともいえる状況の下での相次ぐ両親の死を始め、たび重なる試練に金次郎は力強く立ち向かいます。昼は伯父を手伝い、夜は菜種油で灯をともし勉学に励みました。友人から譲り受けた種を仙了川堤に蒔き7升~8升を収穫、また空き地に捨て苗を植え一俵(60Kg)の米を得るなど、後の金次郎の生き方に大きな影響を及ぼす経験を積んだのです。
 そして23歳の時には1町4反の土地を持つに至り、伊勢、京都、奈良、大阪を旅する等して「見聞」を広めると同時に、近くでは小田原の町中の銭湯を情報収集の場としてたびたび訪れたのもこの頃でした。

 
25歳で小田原藩家老の若党の重責につきました。当時のエピソードとして、会計の責任者であった金次郎の元へ給料の前借りに来た女中さんに対し「今、どの様にしてカマドに火をつけているか? 何本の薪でご飯が炊けるか?」等質問し、答えられない女中さんと共に現場へ行き、薪のくべ方、炊きあがった後の火の始末に至るまで指導したのです。「カマドに火をつける時は薪をイカダに組み三本に点火する。」「炊きあがったら残った薪は炭つぼに保存し次の日に使用する。」といった細かい指導の後、都度、何本の薪で炊き上げるかを聞き、その本数よりも少なく済んだ分を買い上げ給与として支払ったともいわれています。些細なことでも必ず相手と確認し合ったという金次郎らしい逸話といえます。

 また、現在の信用組合、信用金庫の考え方の元となった五常講(むじん)を試みたのもこの頃でした。金次郎は当時、普通では考えられない手法を用いて財産を増やしていきました。その方法とは、土地を買い田畑を作り、その土地を人に貸したり、更には売却したりするといったユニークなものだったのです。30歳の時には三町八反という広大な田畑を所有するにいたったのです。33歳の時には、波子(15歳)と再婚、小田原藩の名主役格に登用されました。そして、大久保忠真公より栃木県桜町の再興を命ぜられ、田畑は勿論、家財一切を売り払い桜町へ向かいました。正に「一家を捨て万家を助ける」心情だったと思われます。

 人生の後半、金次郎の栃木県での生活のスタートです。ここでの仕事は、今までの様々な制度を大きく変えなければならない為、金次郎とて思うようにはいかず、何度となく辞表を出すものの受理してはもらえませんでした。
42歳の時には、成田山に赴き21日間の断食水行を行いました。丁度その頃、ようやく金次郎の考え方や行いを理解した村人たちの熱い想いもあり、二年後44歳の時、桜町領の第一期仕法が終了したのです。

 この後、報徳仕法を十分活用し何と六百を越える村々を復興に導いたのです。
45歳を迎えた年におこった天保の大飢饉に際し、金次郎は口にしたナスの味の異変から大凶作を予知し予め対策を講じ被害を最小限に食い止めました。
 数多くある金次郎が成し遂げた偉業の中でも
52歳の時に行った福島県相馬における財政改革の手法は170年以上を経た現在でも輝きを失っていません。しかしながらその後の金次郎には、他の地方でのあまりに偉大な功績に対する妬み等から、小田原に戻り更に報徳仕法を確立してゆきたいと思う気持ちも受け入れられる事なく、仕法は廃止されその上百姓の出である事を理由に墓参りまで拒否されるという、誠に辛い日々が続いたのです。
 
 金次郎の母、よしさんのご実家は小田原市の曽我にあり、今でも大きな建設会社を経営されております。以前、先代に伺ったお話では、「地元では、金次郎と呼ばれ続け、尊徳とも称されるようになったのは
55歳を過ぎてからだった」とのお話でした。

 最後となりますが、私も今この国難ともいえる現状を「報徳仕法」を礎として実践、打破して頂きたい、又出来得る限りお手伝いしたいと強く願う一人であります。

《平塚ロータリークラブ》での講演より抜粋

 
報徳一途・二宮家三代の足跡をたどる ~金次郎、桜町行きの途中で~
実践報徳2010年4月号  
いまいち一円会 佐藤治由 
  三才になったばかりの弥太郎を連れた金次郎夫妻が、栢山を出発したのは文政6年3月13日のことであり、15日には江戸に到着しました。しばらく江戸に滞在した金次郎一行は5月26日に江戸を出発し、同月28日に下野桜町にたどりつきました。

 この日、金次郎一行が桜町にほど近い谷田貝の宿にさしかかると、道端にひざまづき、「私は村役人の一人ですが、二宮様がお出でになるというので、供の者二人を連れてお迎えに参りました。遠路はるばるお越しを頂き、お疲れのことでございましょう。旅の疲れを癒していただくために酒の席も準備してありますので、どうぞこちらへ。」と、声を和らげて話しかけてきました。

 金次郎は、村役人の言葉に感謝しながら、「私は一刻も早く桜町へ行きたいのです。折角のお心遣いですが、遠慮させていただきます。」と述べ、谷田貝の宿を過ぎて桜町の陣屋に到着しました。

 金次郎が、谷田貝宿まで迎えに出た村役人のもてなしを断ったことを伝え聞いたある人が、「村役人の折角の好意を無視するのは失礼だったのではありませんか、何か他に理由でもあったのですか。」と訊ねました。

 それに答えて金次郎は次のように話しました。

「だいたい、良さそうなことを言って近づいてくるのは必ず下心があるからなのだ。実直で清潔な人はそう軽々しく出て来ることはないのだ。お世辞上手な彼らは上役には媚びへつらい、下々の者を虐げて私腹を肥やそうとしているのだ。今までにも何人かの役人が小田原から派遣されてきたが、みなお世辞上手が村役人に騙されて善良な村人たちを失望させ、村の気風は少しも良くならなかったのだ。だから、私は彼らのお世辞に乗せられることなく、善悪をよく見極め、善行者を表彰し、弱者を憐れむ村の政治を行いたいのだ。」と。

 金次郎の話を聞いて感心したその人は、以後金次郎を深く信頼するようになりました。

 

尊徳翁と御木本幸吉翁との出逢い

  実践報徳2010年4月号  
小田原報徳実践会会長 田嶋享  

明治二十二年二月一日東海道本線が開通した。当時は沼津から御殿場を経由して国府津駅まで六十・二キロの道程でした。御木本幸吉翁が松田駅に降り立ったのは明治四十二年六月のことでした。

 当時五十二才であった御木本幸吉翁は、三重県鳥羽の生まれで、幼名は阿波屋吉松といい、小さな食堂の長男として生まれ、父は音松、母はもとといった。十三才の頃には青果の行商を行い、二十才の時に十一日間をかけて東京・横浜を視察し、見るもの、聞くもの別世界に来たような驚きを体験した。

 当時、東京・横浜での鮮魚類の相場は鳥羽の五倍以上もしていたし、天然真珠を中国商人がすごい価格で取引していた。この時、幸吉は「俺の将来はこれだ」と決めた。二十二才で鳥羽町町議会議員に選ばれ地元の産業振興に尽力した。この頃幸吉は大日本水産会幹部柳沢楢悦に面談し、神明湾で真珠の培養を試している。

 明治二十三年幸吉三十二才の時、箕作住吉博士に面会し、真珠の養殖法を学んだ。相島と神明湾で半円真珠の実験を開始するが、明治二十五年赤潮が発生し、養殖中に貝が全滅。がっくりと肩を落としてしまった。幸吉は、明治二十五年十二月に知人から手に入れた大日本農会発行の報徳記を熟読し、目を潤ませ「尊徳翁も自分も試練と境遇は全く同じだなぁ。どんな辛酸にも挫けず、忍耐を重ねて努力すれば報われる」と己に言い聞かせ、俺も海の金次郎になってみせると決心した。その後、幸吉は上京の機会に念願の尊徳翁終焉の地今市に行った


 参詣人で賑わっている道中で、人なつこい紳士が幸吉に言葉をかけてきた。「貴方はどこからきたのですか」と、幸吉は「三重県鳥羽から」というと「ヘエッ遠くから見えたんですね」と話が弾み、「此処に祀られている二宮尊徳先生は、相模の栢山の方で田畑三町有余と、家屋敷、家財を処分されて相模を始め、関東北部、相馬の疲弊した村々六百有余を復興させた偉大な農民指導者です。自ら育てた今市報徳役所で亡くなられた時、私有財産は零に近かったと伝えられている。」と熱っぽく話したから、幸吉は尚更に尊徳翁の人間的偉大さに魅了された。

明治四十二年六月下旬、幸吉翁は松田駅で下車した。当時、報徳の教えの高まりで参拝者が多くなったが、松田駅から栢山までの道程は不慣れな状態であった。

 幸吉翁は、ここに石の道標が必要だと思い当時の松田駅長松丸氏と交渉し「二宮尊徳誕生地栢山道、一里半」と刻まれた道標を建てる許可を得た。今更幸吉翁の善意がひしと伝わってくる。松田駅近くの宿に宿泊し、翌早朝手配された馬車に乗り込み栢山に向かった。着いた所は、廻りは草茫々の桑畑で、そこに立った幸吉翁は茫然として、時は流れ人間のはかなさを感じた


 予ねて約束通り、村長小沢秀雄氏と地主との立ち合いの許、「尊徳誕生地を回復して後世の人達に顕彰したい」と伝えて交渉し、提示された土地面積二五九坪の金額に無条件で応諾し、住友銀行本店小切手を渡し、中央報徳会名義に移転登記を約束した。幸吉翁は売買手続きを終了させると待たせておいた馬車に乗り込み再び松田に戻って行った。現在、その土地に尊徳翁が生まれたわらぶき屋根の建物が建っています。

尊徳翁は、身長一八五センチ、体重九五キロ、七十才死去

幸吉翁は、身長一六五センチ、体重六十キロ、九七才死去

写真は、松田駅長室の横に建立されている道標。

 小田原報徳実践会

 



 
 家庭人・二宮尊徳(二)新しい家庭
報徳博物館評議員、日本ペンクラブ会員 新井
恵美子先生
 実践報徳011号(2013年4月号)
    
 金次郎の一家再興の事業は思いがけず、短い時間で完成した。二十四才の春、念願の家普請が出来た。田んぼはもう一町四反五畝二十歩にもなっていた。それは足柄平野の平均的農民の持つほどの田地だ。

 その上、金次郎はこの年、富士登山をした。江戸、伊勢、関西方面の旅に出る。旅行には金がかかる。近隣の農民は一生かけて家普請や旅をするのだ。それを金次郎は二十四才でやってしまったのだ。

 「大したものだ」と周囲の者は驚いた。金次郎のあまりに早い一家再興に舌を巻いたのだった。金次郎自身も一つの山を制覇した満足感を味わっていた。しかし、無念なことがあった。弟たちを呼び寄せて新家庭を築く予定だったが、下の弟富太郎は九歳で亡くなっていた。上の弟常五郎も本家、二宮三郎左衛門の養子となってしまった。新築の家に一人座す金次郎は砂をかむような寂しさを感じていた。

  それでも金次郎は休む間もなく、次の高みに向かっていった。服部家の若党になったことがその第一歩だった。服部家に住み込む目的はいくつかあった。まず服部家の子息の教育係となることで自分の学問も深める。次に服部家の家政整理をすることで最初の仕法を成功させる事だった。小田原藩の筆頭家老である服部家の復興を成功させることで藩主大久保忠真に近づくことになるのだ。

 この頃、金次郎は中島きのと最初の結婚をする。三十一才の時のことだ。一日も早く暖かい家庭を作りたかったのだ。しかしこの結婚は二年しか続かなかった。金次郎の生き方を真に理解する岡田波子と二度目の結婚をして、再出発をはかる。

 藩主大久保忠真の命を受け、金次郎は野州桜町の復興のために立ち上がる。結婚して、長男弥太郎を生んだばかりの妻波子を伴ってわずかばかりの家財を馬の背に乗せて小田原を去って行く。二十四才までに再興した家も三町歩にもなった土地も処分して、旅立って行くのだった。

 金次郎が求め続けた家庭はどこでも作ることは出来る。家族がついて来てくれる限り、金次郎は孤独ではない。三十五才の金次郎は難事業を果たすために新しい赴任地、桜町に向かって行った。「どんな苦労もいとわない」家族は心を一つにしていた。